注意-選択的注意

「感覚過程」では、どんな瞬間も、感覚器官が環境から多量の情報攻めにあっていることを強調することから始めた。座って本を読んでいるとき、視野にはまさにその本のページ以上の多くのものがある。そのとき、もしかすると左足はちょっと窮屈であると感じているかもしれない。どのような音が聞こえるか。どのようなにおいが漂っているか。

その間にも、情報攻めにあっている人間は、何らかの課題を成し遂げようとしている。この課題は一杯のコーヒーを飲むという単純なもの、あるいは脳外科手術を行うという複雑なもの、あるいは本の情報を要約しようとするような、どちらとも言えないものかもしれない。

しかし、どんな課題であれ、入ってくる情報のごくわずかな部分のみが課題に関係し、大部分は無関係である。この事態は、感覚系と脳が入力された情報をふるいにかけるための、何らかの手段を持っていることを意味している。すなわちそれは手近にある課題に関係のある情報のみを選択し、関係のない情報を無視するのである。もし、そのようなふるいにかける過程が存在しないのなら、関係ない情報が関係する情報を覆ってしまい、結果として私たちは何もなし得ないだろう。

環境におけるすべての情報の中から少しの部分のみに選択的に注意を向ける能力、この一見単純な能力は、脳における解剖学的に異なった三つの過程に関係していることが、いま広く信じられている(e.g,,Fan et al.,2002)。一つ目の過程は私たちに警戒態勢を取らせる。

たとえば、航空管制官は、責任を負っているさまざまな航空機に気づくために警戒し続ける必要がある。この過程の失敗は悲惨な注意の過失を引き起こす。第二の過程は、課題に関連する情報に処理資源を向けさせる(たとえば。何が語られているか理解するために、その声に精神を集中させる)。

そして、第三に、時に「執行部」としての役割を果たし、その情報に注意を向け続けたいか、あるいはその代わりに他の情報に注意を切り替えたいのかを決定する(たとえば、私は全く葉緑体に興味がないのに、この人は葉緑体について語っている)過程である。重要な点は、注意が一つの過程であるというよりむしろ、相互に作用しあう複合的な過程であると考えるのが最善だということである。

選択的注意

私たちはどれくらい正確に興味のある対象物に注意を向けるだろうか。もっとも単純な方法は、物理的に私たちの感覚受容器を新しい方向に向けることである。

視覚に関して言えば、これは、興味ある対象物が網膜窩に来るまで眼球を動かすことを意味する。この領域は網膜の中で最も敏感な領域で、視覚的な情報を細部まで処理するように作られた領域である。

眼球運動

視覚的注意の研究はしばしば、参加者が絵や場面を見ているのを観察することにより行われる。もし、私たちが人間の眼球を見たならば、それらは静止していないというこがわかる。それどころか、視覚走査は、眼球が比較的静止している間にすばやく形状を調べる固視(eye fixations)と呼ばれるものと、サッカード(saccades)と呼ばれる眼球のすばやい跳躍によって区分される。固視は約300ミリ秒(訳3分の1秒)続き、サッカードはそれよりも非常に速い(20ミリ秒)。視覚情報が環境から得られるのは固視の間であり、サッカードの間、視覚は本質的に抑制されている。

場面に対する人の眼球の固視の様相を観察することによって、人の視覚的注意の流れについて、かなりの洞察を得ることができる。眼球運動の記録には多くの技法があるが、結局それらすべてに共通して言えるのは、コンピューターによって作り出されるその場面の、どこを注視しているかについてのミリ秒単位の記録をとることである。

そのような記録は他のものと一緒に使われ、図1に示したように、固視の軌道に沿った光景を表現することになる。一般的に言えば、眼球が固視する点はでたらめではなく、むしろほとんどの情報が入っている場面に限られる。

「情報」を厳密に定義できないが、大ざっぱに言えば、見ている場面を他の類似した場面から最も区別できそうな部分、を指している。たとえば、図1に示したように、顔を見ている人は眼、鼻、そして口を多く固視している。すなわち、これらが一つの顔を別のものから最も効率よく区別する特徴である。

ロフタスとマックワース(1978)は、ある背景の中で、見慣れないものと見慣れたもののどちらかの対象物を含む絵を提示することによって、固視と絵画情報の間の関係を例証した。たとえば、一人の参加者には中心にトラクターがある農園の庭の絵が提示され、一方、別の参加者には同じ農家の絵ではあるが、トラクターではなくタコの絵が描かれている絵を見せた。

眼球の固視は普通の対象物(トラクター)よりも見慣れない対象物(タコ)に対して、早くからそして頻繁に向けられた(対照するために、他の二人の参加者に、水中場面でタコの絵と同じ水中場面でのトラクターの絵をそれぞれに見せた)。

凶器注目

この種の眼球運動の役に立つ実際的な応用は、凶器注目(weapon focus)と呼ばれるものに関してである。すなわち、武装した犯罪の犠牲者はしばしば、その凶器がどのように見えたかを非常に正確に記述することができる。しかし、凶器を使っていた人物の容貌のような、場面の他の側面については比較的ほとんどわからないように思われる。

このことは、注意が主に凶器に向けられていたことを示唆している。この逸話的事実は実験室での研究によって大体確かめられている。(Steblay,1992)。ロフタス、ロフタス、メッソ(1987)は参加者がスライド連写を見ている間の眼球運動を記録した。

スライドの一つは、あたりさわりないもの(小切手帳)、もう一つは脅威を突き付けるもの(ナイフ)を扱っている人物を示していた。彼らは、その対象物があたりさわりないものよりも脅威を突き付けるもののときの方が、その場面の残りの部分に比べて、その対象物に、より長い時間の固視が生じることを見出した。

それに対応して、あたりさわりない対象物と比較すると、脅威をつきつける対象物を見ていたときの方が、参加者はその対象物を持っている人物の顔のような場面以外の側面をほとんど再認できなかった。

実験室での研究は、現実生活状況と比べて、探求しなければならない凶器の注意を引き付ける力が明らかに過小評価されていることに注目することは重要である。現実の生活でも、実験室の状況でも、凶器は尋常でないものであり、上述したように、それに基づいて注意を引き付けることが予想される。

しかし、現実の生活状況では、凶器が、脅かされた個人の差し迫った課題、すなわち生存と関連する重大な環境的情報の一部をなすという、付加的な構成要素を持っている。

眼球運動をしないで向けられた注意

私たちは、通常、眼球が向けられているものに注意するが、眼球を動かさず、ある視覚刺激に選択的に注意を向けることもできる。このことを例証する実験では、参加者は、ある対象物が出現したときにそれを検出せよという課題が与えられ、それぞれの試行で参加者は何もない地をじっと見つめ、それから短時間、右か左のどちらかに注意を向けることをする手がかりを見る。

それから、手がかりによって示された位置か、あるいはその反対側の位置に対象物が提示される。手がかりと対象物の間隔は、参加者が眼球を動かすには短すぎるが、対象物が手がかりの位置にあったときのほうが、ほかの位置にあるときよりも速く対象物を検出することができる。

その結果はおそらく、彼らはそこで眼球を動かすことができなくても、手がかりが与えられた位置に注意を払っていることを意味する(Posner&Raichle,1994)。

聴覚的注意

注意は多感覚様相的である。すなわち、注意は一つの感覚様相内を(たとえば、一つの視覚刺激から別の視覚刺激へ)動くこともできれば、感覚様相間を動くこともできる(たとえば、運転中道路を見ることから、ちょうど携帯電話をかけてきた人の話に注意が移るなど)。

注意に関する初期の研究の多くは、聴覚的注意についてすすめられた(たとえば、Cherry,1953)。実際の生活の中でチェリーの研究に類似しているものは、混み合ったパーティーである。パーティーでは、多くの音声が私たちの耳に飛び込んでくる。しかし、私たちは会話内容に選択的に注意を払うために、知的な手段を使うことができる。

これを行うために用いる手がかりのいくつかは、音が聞こえてくる方向、話者の唇の動き、そして話者特有の声の特徴(声の高さやイントネーション)である。これらの手がかりのいくつかがない場合でさえ、私たちは二つの会話内容のうち、意味に基づいて耳を傾けるべき一つを(困難を伴うけれど)選択することができる。

注意、知覚、そして記憶

いくつかの警告を伴う一般的な規則が、注意と後の記憶の間の関係に関して生じてくる。私たちは、たとえどんなものでも、注意を向けていない情報については意識的には気づかないし、ほとんど覚えていない。聴覚の領域において追唱(shadowing)として知られる手続きは、これを例証するために使われる。

参加者はステレオのイヤフォンをつけ、全く異なった二つのメッセージをそれぞれの耳に流される。参加者は聞こえたまま、一つのメッセージを繰り返して言う(追唱)ことを求められる。2,3分後にメッセージは消され、参加者に追唱しなかったメッセージについて尋ねられる。

メッセージについての参加者の報告は、追唱しなかった耳における音声の物理的特徴、すなわち声は高いか低いか、男性か女性かなどに通常限定される。参加者はメッセージの内容についてほとんど何も言うことができない。そして、実に、言語が英語からフランス語に変わり、それからまた元に戻るときさえ気づかない(Moray,1969)。

ロフタス(Loftus,1972)は視覚における類似の発見を報告している。彼は二枚の絵を並べて、参加者に一枚の絵だけ見るように求めた(指示に従っているかを確認するため参加者の眼球運動を観察した)。そこで見いだされたことは、注意を向けた絵に関しては、後になってもかなり記憶していたが、注意を向けなかった絵に関しては、まったく記憶していなかったということであった。

私たちが注意を向けなかった聴覚情報についてほとんど報告できない、という事実から、研究者は、初めのうちは注意されない刺激は完全に取り除かれると考えるようになった(Broadbent,1958)。しかしながら現在では、私たちの知覚機構は、ある程度まで(聴覚だけではなく視覚においても)たとえ滅多に注意できないような刺激であっても、注意を向けなかった刺激を処理する、ということが明らかになってきている。

注意を向けていない刺激の部分的な処理に関する一つの証拠として、私たちが注意を向けていない会話の中で、自分の名前が小さい声で言われたときでも、それが聞こえるということがある。もし、全く注意を向けていない情報が知覚機構のより低い水準で失われたならば、これは起こりえない。それゆえ、注意の欠如は完全には情報を阻止するわけではない。むしろ、それらを消すのではなく、弱めるように音量を調節するであろう(Treisman,1969)。

刺激に対する選択的注意の損失と利得

情報に選択的に注意を向ける一つの損失は、観察者がしばしば、その環境内では潜在的に重要な他の刺激に気づかないことである。たとえば、サイモンとシャブリ(Simons&Chablis,1999)は、何人かの学生が、お互いにバスケットボールをパスしている映像を参加者に示した。参加者の課題は全パス数を数えることであった。

映像が流れている間、ゴリラの恰好をした人がその場面の真ん中を通って右に歩いた。参加者はバスケットボールに注意を向けていたので、ほとんどだれもゴリラに気づかなかった。この非注意による見落とし(inattention blindness)は、場面の大規模な変化にでさえ気づくことができないという変化の見落とし(change blindness)に密接に関係している。

この興味ある例は、ニューヨーク州にあるコーネル大学の構内で、サイモンとレビン(Simons&Levin,1998)によって明らかに示された。彼らの実験では、学生が建物の方向を尋ねるために歩行者を止めた。歩行者が質問に答えている間、不透明のドアを運んでいる二人が学生と歩行者の間を歩き、学生を見る歩行者の視界を瞬間的に遮った。

この間に学生はドアを運んでいる人の一人と入れ替わった。歩行者は、いま全く違う人と話していることに、半数以上の人が気づかなかった。話し手の顔にうまく注意を引き付けると、この変化の見落としの効果はかなり減少した。

人々が一群の情報の間で注意を切り替えられることが、最近、眼球の水晶体の濁り、光を十分に伝えられないときに行なわれる白内障手術において活用されている。典型的な処置は、濁った水晶体を取り除き、透明な人工のものと置き換えることである。しかし、自然の水晶体は距離が変わったときに、対象物に焦点を合わせるために、その厚さを調節することができるが、人工レンズは通常固定されている。

結果として、手術を受けた人々は、少なくとも約90センチメートル離れた対象物ならば、明瞭に見ることができるが、それより近い対象物に焦点を合わせたり、本を読むときには、特殊なメガネを必要とする。いま、たくさんの同心の輪から成る、新しい人工レンズが開発されつつある。

このレンズでは、遠い対象物や近い対象物に焦点を合わせるときに、輪を交互に選択するのである。結果として、二つの像が網膜上に同時に投影される。一つの像は近い対象物に焦点が合わされ、遠いものはぼやけている。そして、二つ目の像は近い対象物ではなく、遠い対象物に焦点が合わされている。

研究は、人工レンズを装着した患者が、一方の像、あるいは他方の像に選択的に注意を向けることができ、注意を向けなかった像に気づかない。ということを示している。このように、研究されているレンズでは、遠近両方の対象物の明瞭な知覚を提供できる(たとえば、Brydon,2003)。

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