構成的記憶(constructive memory)2

私たちが心の中である記憶をたどるたびに、その記憶はいくらか変化する、記憶の形成の最中に、推論を生み出し、なおかつ、これらの推論を記憶の一部として貯蔵するかもしれない。

私たちが知っていることや、過去に学習したほかの事実に照らして、意味をなさないと思われる情報を私たちは排除するかもしれない、他者によって示唆された新しい情報を付け加えるかもしれない。

これらすべての種類の処理は、事後の記憶の再構成(post-event memory reconstruction)の範疇に入る。

内的に産出された推論

人が推論をし、その後記憶に組み込む仕組には多くの方法がある。ハニガンとラインツ(Hannigan&Reinitz,2001)によって報告された最初の一つの例は、視覚記憶における推論を描いている。

彼らの実験において、参加者はたとえばスーパーマーケットにおける買い物のような、ある日常的な活動を描いた一連のスライドを見た。その一連のスライドの一部として、彼らは比較的珍しい場面(たとえばスーパーマーケットの床にまき散らされたオレンジを見る)を表した光景を見た。

その後、その参加者たちは、この場面のあり得る原因を合理的に表す1枚の写真(たとえば、あるご婦人が、積み重ねられたオレンジの山の底から、一個のオレンジを取り出そうとしている)を見ていた。と自信をもって断言した。

けれども、実際はそのスライドを彼らは見ていなかったのである。この結果やこれと関連する結果は、これらの場面において参加者は何が起きていなければならないかについて推論をし、その後、その推論を結果を出来事の記憶の中に組み込んでいるということを強力に示唆している。

推論はまた、ヒトやモノや出来事や場面の種類についての心的表象であるスキーマ(schemas)に基づいてなされる。これから焦点を絞って記述するステレオタイプ(stereotype)は、人の集団を表象するため(たとえば、イタリア人、女性、運動選手)、一種のスキーマである。

また、スキーマは、ある場面での振る舞い方についての知識を記述するためにも使われる。

たとえば、たいていの大人はレストランで食事をする方法についてのスキーマをもっている(レストランに入り、テーブルを見つけ、ウェイターからメニューを受け取って、食事を注文‥など)。スキーマによって認識したり、考えたりすると、大量の情報を敏速にかつ効率的に処理することが可能となる。

私たちが出会ったはじめての人や、モノ、あるいは場面についての細部にわたって、そのすべてを認識し、記憶しなければならない代わりに、単に、それがすでに記憶の中のあるスキーマに似ていることを注目して、そのスキーマの最も弁別的な特徴のみを符号化し、記憶することができる。

しかしながら、そうした「認知的効率」に払う代価は、あるモノや出来事を符号化するために使ったスキーマがうまく適合しなければ、そのモノや出来事は歪められるということである。

おそらく、バートレット(Bartlett,1932)は記憶におけるスキーマの影響を組織的に研究した最初の心理学者である。私たちがステレオタイプに当てはめるときに生じる記憶の歪曲と大変よく似たことが、物語をスキーマに当てはめるときににも起こり得ることを、彼は示唆した。

その後の研究は、バートレットのこの考えを確証している。たとえばレストランに行こうとしている一人の登場人物について、短い物語を読んだ後で、食事をして代金を払うといった行為はその物語の中では決して言及されていないにもかかわらず、人はその人物が食事をして代金を払ったことをも再生しがちなのである(Bower,Black&Turner,1979)。

社会的ステレオタイプ

記憶がスキーマによって動かされている場面は、単純な場面とは大きな隔たりがあるように思われる。

たとえば、無関連語の表についての記憶を考えてみると、ここでの記憶過程は、ボトムアップの傾向が強い。すなわち、この記憶過程は、何か新しいことを構成するというよりも、入力刺激を保持するために働く。

しかしながら、この単純な場面にさえも構成的な傾向が存在する。というのは、心象を使う方法は、入力刺激に意味を付与するからである。同様に、私たちがスキーマに基づく活動について書かれている段落を読むとき、私たちはその段落を正確に再生しようとすれば、文章の個々の下りを依然として保持していなければならない。

このように、記憶は二つの側面、すなわち、保持することと構成することは常に存在するかもしれない。しかし、それらの相対的な強さはまさに場面に依存するのだろう。先述したように、一種の重要なスキーマが社会的ステレオタイプ(social stereo-type)であり、それはある人々の集団の全員に共通する人格特性や身体的特徴と関連している。

たとえば、典型的なドイツ人(知的、繊細、真面目)や典型的なイタリア人(芸術的、陽気、面白好き)のステレオタイプを持っているかもしれない。この描写はその集団に属する多くの人たちにはめったに当てはまらないし、しばしば社会的相互作用場面で誤解を招きやすい。

ある人物について情報を提示されると、私たちはときどきその人をステレオタイプ化して(たとえば「典型的な日本人である」)、提示された情報と私たちのステレオタイプの情報を組み合わせる。

したがって、その人物に関する記憶は、部分的にはこのステレオタイプから構成されていることになる。私たちのステレオタイプは、その人物にそぐわないところまで、往々して再生を大きくゆがめてしまうことにがある。

外的に与えられた暗示

また、事後の再構成は他者によって与えられた情報の結果として生じるかもしれない。エリザベス・ロ二タスとジョン・パーマー(Elizabeth Loftus&Jhon Palmer,1974) によって報告された一つの古典的な実験が、この過程を証明している。

この実験において、参加者は、交通事故(一方の車が他方の車に衝突する事故)の映画を見せられた。その映画の後、参加者はちょうど今見た事故について、一連の質問をされた。

参加者は二つの群に分けられ、両群は与えられる質問文の中の一つの言葉を除いて同一に処遇された。特に「衝突」群は、速度について「お互いの車がぶつかったとき、どのくらいの速さで走っていましたか」のような質問をされた。

一方、「激突」群には「お互いの車が激突したとき、どのくらいの速さで走っていましたか」の質問であった。それ以外については「衝突」群と、「激突」群は同一に処遇された。

この実験の第一の結果は、「激突」群が「衝撃」群に比べて車の速度を早く見積もったということだった。このことは与えられる質問が回答に及ぼす影響を証明しているという点で興味深い。

しかし、事後の再構成の問題にもっとも関連していることは、手続きに関する次の部分であった。

すべての参加者は、ほぼ一週間後に再びやって来て、その事故についていくつかの追加質問を受けた。その質問の一つは「あなたは割れたガラスを見ましたか」であった。実際には割れたガラスなどなかった。

「激突した」という動詞で、速度について尋ねられた参加者は、「衝突した」という動詞で尋ねられた参加者よりも、割れたガラスの存在を間違って報告する傾向が実際に多かった。

この結果は、「激突した」という動詞が事後の情報(post-event infomation)を構成したものと解釈できる。この言葉を聞いたとき、2台の車がお互いに「激突した」激しい事故と一致するように、その事故についての記憶を参加者たちは再構成したのである。

このような暗示的情報の効果はどれほど強力なのだろうか。そのもっとも説得力のある化学的な証拠が、最近の実験室的研究から出てきている。

その研究では、全体として虚構である出来事についての記憶は、統制された条件下で注入できるということを示している。たとえばハイマン、ハズバンとピリングス(Hyman,Husband,&Billings)は、ある実験結果を報告した。

その中で、大学性が次のようなことを訪ねられる。全体としては作り話なのであるが、ほとんど稀にしか生じない出来事(たとえば、結婚披露宴に参加し、花嫁の両親に飲み物の容器を誤ってこぼした)を少年のころ(5歳ころ)経験したしと言われた参加者は、そのことを思い出したかどうかを問われた。

最初は、だれもこの出来事を思い出さなかったが、その「出来事」について2回の面接聴取後、学生の相当な割合(20~25%)がその出来事の一部、もしくはすべてに対して、非常に明瞭な「記憶」を報告した。事実、学生の多くが、彼らにそれまで提示されていなかった(もちろん、客観的な現実に一致し得ない)詳細を「思い出し始めた」。

他の研究(たとえば、Loftus&Pickrell,1995;Loftus,Coan&Pickrell1996)も同様な結果を報告している。そしてまた、別の研究(Garry,Manning,Loftus,&Sherman,1996)は、過去の作り事の描写を人々に単に想像させるだけで、そうした記憶が引き起こされると報告している。

これらの研究において参加者は決して起きていない一続きの出来事の記憶を創造するために、実験者によって与えられた事後の情報を使っているように思われる。加えて、これらの出来事を自発的に想像する過程が、細部にわたる付加的情報のような追加的、自己生成的な事後情報意をもたらし、その後またそれらの情報が記憶に組み込まれるのである。

これらの実験においてすべての参加者が実際にこのような誤った出来事を思い出したわけではない。一般に、思い出す人の割合は、約25%であった。ハイマンとその研究者たちの研究は誤った記憶の想像と人格特性との関連性を報告した。

その第一が、解離性経験尺度の得点である。この尺度の人が記憶や注意の過ちをおかしたり、認識や思考そして記憶を統合できないその範囲を測定している。第二の関連は独創的想像尺度の得点であった。それは、催眠感受性の尺度であり、また、視覚像の鮮明度に関する内省報告尺度として解釈できる。

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