感覚と知覚

夜遅く人気のない教会で腰をおろしている姿を想像していただきたい。その姿は深い静けさに満ちているけれども、実際には外界から膨大な量の情報が降り注いでいる。すなわち聖餐台からの光がほの暗く見えるかもしれないが目に入り、街の物音が低いけれども耳に入り、腰をおろしている聖堂の座席が身体に押し当り、お香のにおいが漂い鼻にかすかに感じられ、飲んだばかりのワインの味がまだ口にとどまっている。

しかもこれは気がついている環境情報に過ぎないのである。そのうえ、気がつかない情報がさらにもっとたくさん存在する。背後の丘にあるマイクロ波送信機や、街の反対側にある無線局や、話し好きの通行人の携帯電話は、みな、周りを取り巻いていても意識にはのぼらないさまざまな種類の電磁放射線を発している。

通りの向こう側ではイヌの飼い主が自分のイヌに口笛を吹いて、イヌ(や近くのコウモリ)には非常に顕著であっても人間には聞き取れない高周波の音を送る。同様に、大気中や口中には粒子が存在し皮膚上には微量な圧力が存在していて情報を与えるがそれが記録されるわけではない。

個ここでの要点は、もっとも静かな環境においてさえ、外界が絶えず巨大な情報を私たちに供給し続けていることである。外界と適切の相互作用するするために、私たちはこういった情報の少なくともいくらかは取り込んで解釈する必要がある。この必要性は考慮すべき事柄を二つ提起している。

第一に、環境情報のどの側面が私たちの感覚によって記録され、どれが記録されないのであろうか。たとえば、なぜ私たちは電磁放射線を緑の光という形は見えるが、X線や電波という形では見えないのであろうか。第二に、感覚器官はどのように働き、獲得可能な情報を効率よく得られるのであろうが。

最初の疑問は、興味深いけれどもこの章での範囲を超えている。しかし、進化論の視点から理解するのが最も良い。スチティーブン・ピンカーの「How the Mind Works(1997)(涼田直子訳「心の仕組み(2003NHK出版)はこの視点について見事に説明している。

一例を挙げれば、なぜ電磁放射線のうち、現に見えている形のみが私たちには見えるのかという疑問に対する簡潔な答えはこのようになるのであろう。

すなわち、この世界で動き生き残るためには、「物体」について、それがなんであるかそしてどこにあるのかを知る必要がある。それで、この目標を最も良く達成する電磁スペクトラムの部分を使うように私たちは進化したのである。ある形態の電磁波放射線、たとえばX線やガンマ線のような波長の短い放射線を用いたのでは、もとんどの物体は目に見えない。

すなわち、その放射線は物体から私たちの目のほうには反射せず、物体をまっすぐ通過してしまうのである。他の形態の放射線、たとえば電波のような波長の長い放射線では、物体から鷲たちの目のほうに反射はするものの、輪郭がぼんやりしていて実用的な意味では役に立たない仕方で反射する。

私たちの感覚は入力系である。私たちは感覚から、私たちを取り巻く世界についてのデータを得るのであり、そのデータが、私たちが存在し行動する環境の性質を決定する最も直接的な手段になる(とはいえ、唯一の手段ではないが)。

分析の生物学的な水準でも心理学的な水準でも、しばし感覚(sensation)知覚(perception)の区別がなされる。心理学的水準では、感覚は刺激と結びついた、根底にある性の経験のことである(たとえば、視覚が、赤い大きな物体を捉えるかもしれない)。一方、知覚は、生の感覚経験の統合と意味のある解釈を含む(「それは消防車だ」)。

生物学的水準では、感覚過程は感覚器官とそこから発する神経伝導路とを含み、両者の刺激情報獲得の初期段階にかかわる。知覚過程は皮質の高次水準を含むが、皮質の高次水準は意味により多く関係することが知られている。

感覚と知覚の区別は、カテゴリーで分けてはいるが、あいまいなところもある。刺激処理過程の初期に起こる心理事象と生物事象が刺激の解釈に影響を及ぼすことも時にはあるからである。さらに、神経系から見れば、感覚器官による感覚情報の最初の取り込みと、意味を帰属させるために続いて起こる脳による情報の利用との間に、はっきりとした切れ目がないからである。

事実、脳の最も重要な特徴の一つは、感覚情報の取入れに加えて、脳が絶えず情報を最高次水準から感覚処理過程の最初期段階に送り戻していることである。その逆行性投射(back projection)が実際に感覚入力の処理の仕方を変化させている(Damasio,1994;Zeki,1993)。

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