潜在記憶についてわかっていることの多くは、健忘 (amnesia)、すなわち記憶の部分的喪失を患っている人々から学ばれてきた。脳の損傷によって、知覚や注意、一般的機能などは高く保たれているのに記憶のみが選択的に障害される健忘症が起こることは早くから知られており、そうした症例の研究は、記憶の神経機構や正常な記憶過程の理解に役立つ。
健忘症は事故による脳損傷、脳溢血、脳炎、アルコール中毒(慢性アルコール中毒患者が示すコルサコフ症候群は19世紀から知られていた)、電撃、外科手術のように異なった原因によって生じる。原因は何であれ、健忘症の第一の兆候は日々の出来事を記憶し、新しい事実の情報を獲得する際の著しい能力障害である。
これは、前向性健忘(発症後の経験についての記憶喪失)と呼ばれ、二番目の兆候は、損傷もしくは疾病の以前に起きた出来事を思い出せない、長期にわたる逆向性健忘(発症以前の経験につての記憶喪失)である。
これらの特徴をもつ健忘症は、間脳の乳頭体と視床背内側核に損傷が認められたことから、この二つの部位と記憶(宣言的記憶)との関係が注目された。さらに19世紀から20世紀への変わり目に、側頭葉内側部の損傷によっても記憶障害が起こることが明らかになった。
この部位と記憶との関係がさらに注目されるようになったのは、H、Mという患者である。重いてんかんを患っていたHMは1953年、27歳のとき脳の両半球の側頭葉と辺縁系の一部を切除する手術を受けた。術後てんかんは治ったものの、きわめて重篤な前向性健忘となり、手術前に起きた出来事は思い出すことができたが、新しい記憶を形成できなくなった。
新しい情報に注意を集中している限りはそれを維持することができたが、一旦注意が逸れるとすぐにその情報を忘れた。
彼の手術で切除された部位には、偏桃体、海馬を含む種々の部位が含まれており、どの部位が記憶障害を起こしたのかが問題となった。海馬を含まない偏桃体だけの切除では記憶障害が起こらないこと、その後、海馬に限局した病変記憶障害が生じた事例が報告されたことなどにより、今日では記憶(宣言的記憶)の形成に関与するのは海馬とみられている。
サルので海馬のみを選択的に破壊した実験でも、HMと同じような記憶障害を示すことから、海馬と偏桃体を含む記憶モデルが提唱された。しかし、偏桃体の切除が内嗅皮質や嗅周囲皮質など海馬と密接な線維連絡をもつ部位も破壊していることが明らかとなり、これらを残した偏桃体のみの破壊では記憶障害が起きないことが確認されて、偏桃体と記憶(宣言的記憶)との関係は現在では疑問視されている。
海馬は感覚連合野と間接的に両方向性に連絡しているので、大脳皮質で処理された感覚情報は、海馬に入って再び感覚連合野に戻ってくることになり、この過程によって感覚連合野に記憶が固定されると考えられている。なお、現在では、偏桃体は情動、感情反応の記憶(潜在記憶の一種)とのかかわりをもつといわれている。
短期記憶と長期記憶の障害の解離
日常まったく記憶に残らないHMでも、短期記憶には障害はない。たとえば短期記憶のテストの一種の数唱(実験者の言ったとおりに数列を唱える、または逆順に唱える)では、順唱が7桁、逆唱が5桁が可能で、健常者に比べても劣っていない。
しかし、8桁、9桁など記憶範囲を超えた桁数になると、彼の場合は、何回繰り返しても成功しない。同じ数列を繰り返し聞かせても、繰り返しのたびに、記憶範囲を超えた新しい数列を聞くことになるからである。健常者の場合は、一度聞いただけでは言えなくても、繰り返し聞けば言えるようになる。
長期記憶が重度に障害されているコルサコフ症候群など他の健忘症の例でも、短期記憶が正常なことが確認されている。
一方、HMとは別の患者で、バイク事故によって左頭頂後頭部に損傷が生じたKFは、復唱に著しい障害を示し、数字、単語、アルファベットなど復唱できるのは1項目だけであった。しかし、、長期記憶に関しては、何の障害も示さない。たとえば高頻度で使われる単語10個からなる系列をすべて言えるようになるまでに7回の学習を要したが、これは同年代の健常者10人の平均9回より、むしろ優れていた。
症例、HMとKFとの比較から明らかなように、長期記憶と短期記憶の障害が解離して生じることは、長期記憶と短期記憶とが、それぞれ脳内の個別の部位に関係しており、相互に独立した機能であることを示している。
健忘症から見た記憶の多様性
日常の経験が一切残らないHMでも、課題によっては学習が成立する。鏡映描写課題、回転盤追加課題(回転する円盤の上に描かれた波形の曲線を鉛筆などでなぞる実験)などでは、思考を繰り返すうちに著しい上達を示し、学習効果は日が変わっても保持されていた。
他の多くの健忘者患者についての検討により、読みにくい鏡映文字を読み取る認知課題やパズルなどの思考課題、古典的条件づけ、プライミングなどが学習可能であることが明らかにされている。
これらの多くは手続き的記憶に相当するので、健忘症では宣言的記憶(潜在記憶と顕在記憶)は阻害されているが、手続き的記憶は阻害されていないことになる。これは損傷によって健忘症を起こす海馬などが、宣言的記憶の形成には関与しているが手続き的記憶の形成には関与していないことを意味している。
健忘症患者における宣言的記憶と手続き的記憶の解離は、学習ないし前向性健忘の面だけではなく、逆向性健忘の面でも認められる。健忘症患者は発症時から過去にさかのぼって一定期間の記憶を喪失しているが、その期間に習得した運動技能や認知技能は残っていると考えられる。
しかし、現実には、健忘症患者で残っている過去に獲得した手続き的記憶が、正確に逆向性健忘の期間に獲得されたものかどうかの判断は必ずしも容易ではない。この点の解決してくれるのがECT(erectro-convulsive therapy:電気けいれんショック療法)を用いた研究である。
ECTは脳に強い電流を流して人工的にてんかん発作を起こす方法で、重い鬱病などの治療に使われてきたが、ECTの後には逆向性健忘が残る。そこであらかじめ学習を行わせておき、ECT後にその保持を調べてみる。
被験者は、ECT前の訓練された鏡映文字の読み取りの成績を、ECT後も同じレベルに保持していたが、訓練を受けたこと事態は覚えていない。したがって宣言的記憶(エピソード記憶)は失われているが、手続き的記憶は残っていることが明らかである。
脳損傷患者の中にはエピソード記憶と意味記憶の解離を示す症例の報告も知られており、エピソード記憶は障害されているが意味記憶は健全に残っている症例や、逆に意味記憶のみが選択的に障害されている症例が報告されている。
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