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【心理発達】自己概念 (self-concept)

もしあなたが18カ月の乳児のおでこに、その子が気付かないように、赤いシミをつけて鏡の前に立たせたら、その子は手を伸ばしておでこについたそのシミに触ろうとするだろう(Gallup,1998)。

このテストはミラー・テストと呼ばれ、このくらいの年齢の子どもが鏡に映った像は自分であり、そこに映った自分がいつもと異なることに気づいていることを示唆している。18か月より前は、ミラー・テストにおいて子どもは手を伸ばしておでこについたシミをとろうとせず、鏡に映った「他の子ども」のおでこシミを触ろうとするだろう。

子どもの自己概念 (self-concept)は、発達とともに着実に成長し、自己の多くの異なった側面を拡大する(Harter,1998;Neisser,1988)。これらには、空間における自己身体感や時間における連続的自己感などを含む(昨日も今日も、私は私だ)。こどもは他者とやり取りをする社会的な主体としての自己感や、他者との関係における自分の役割のようにより広範な社会や文化的文脈における自己感も発達させる。

子どもは他者が直接立ち入ることのできない私的な存在としての自己感を持つ。

自尊心(self-esteem)

子どもで幅広く研究されている自己の側面の一つに、自尊心(self-esteem)がある。自尊心とは、価値観を伴った自己感と定義できるかもしれない(Hartet,1998)。自尊心は就学期から青年期にかけて徐々にいくつかのパターンの変化を示す。

就学期前児は、ときにはおかしいくらい非現実的な、きわめて肯定的な自己感を持つ傾向がある。3歳児は自分が最も勇敢で、素早くて、賢い子どもだと自慢する。このきわめて楽観的な自己感によって、幼い子どもは適応的になることができ、たびたびの失敗にめげず頑張るための自信を持つことができるのである。

学童期初期の子どもも肯定的だが、就学前児ほど非現実的に肯定的なわけではない。彼らは自分と他人とを比較するが、それ以上に自分と昔の自分とを比べ、自分がいかに背が高く、強く、大きくなっているかについて話したがる(Ruble&Frey,1991)。学童期初期の子どもは課題に失敗すると落ち込んでしまうが(Lewis,et all.,1992)。その失敗はたいてい彼らの全般的な自己感に永続的な影響を与えはしない。

児童期中盤(8~12歳くらい)になると、子どもは自分自身や自分の技能を他の子どもと比べることに没頭し、このような社会的比較が子どもの自尊心に影響を与え始める(Frey&Ruble,1990)。こどもは、自分がサッカーのチームメイトほどにはボールを遠くに蹴ることができないことや速く走ることができないことに気づき、自分が他の子どもよりも運動選手として優れてないと結論づける。

子どもの自尊心は多くの場合、領域固有である。たとえば、子どもは、自分は優れた運動選手ではないが、数学は得意だというかもしれない。しかし、子どもはそれぞれの領域における自分の能力を区別するが、自分に対して特色帰属をし始める。

たとえば、自分は決して優れた運動選手にはなれないが、数学はずっと得意であろうと考えるのである。

青年期や成人期初期には、社会的比較が自尊心にとって最も重要になる。若者はいかに自分と他者を比較するか、他人が自分をどう思っているかを非常に気にかける。このような社会的比較や評価は、いかに自分を肯定的に捉えることができるかに強い影響を与える(もっとも、若者は、これらの評価に対する敏感さにおいて大きく異なるのだが)。

彼らの自己感は複雑になり、だんだんと自己を長期的な特色や性質という点から捉えるようになる。さらに、多くの社会においては、若者は自分の才能や能力についての自分や他者の評価に基づいて、人生の選択を始めなければならない。

性同一性と性の型づけ

ほとんどの子どもたちは、自分自身について男性か女性かの確かな感覚、すなわち性同一性(gender identity)を獲得する。しかし、ほとんどの文化は、男性と女性の生物学的な相違から信念や習わしのありとあらゆる面を精巧に作り上げ、それは人間活動のほとんどの領域に浸透している。

それぞれ異なる文化は、社会的に正しい行動、規則、人格特性の違いを明確に示すかもしれないし、またそれらの可能性は一つの文かの中でも時代とともに変化するかもしれない。しかし、現在の定義が何であろうと、それぞれの文化はいまなお男児と女児を「男らしい」大人と「女性らしい」大人にさせようとしている。

文化が性に見合ったものとして考える行動や特徴の獲得は性の型づけ(sex typing)と言われる。性同一性と性の型づけとは異なる概念であることに注意してもらいたい。女の子は自分が確かに女性であるという認識はあるかもしれないが、いまだ男性らしいといわれる行動すべてを避けられるわけではない。

しかし、性同一性や性の型づけは単に文化的規定や期待の所産にすぎないのか、あるいは部分的に「自然な」発達の所産によるものか。この問いに対する答えとして主な三つの理論を検討してみたい。

社会的学習理論

社会的学習理論による性の型づけの説明は、子どもたちのとる行動が性的に適合した行動か否かによって、子どもたちに与えられる賞罰を強調する。また子どもたちが大人の観察を通して、性の型づけ行動を学習する過程に留意する(Bussey&Bandura,2004)。観察による学習はまた、同性の大人を模範することを可能にし、性の型づけ行動を学習する。

この社会的学習理論に関して、二つの主要な点を強調したい。社会的学習理論は、まず第一に、性の型づけ行動を他の学習される行動と同様に扱う。何ら特別な心理学的原理や過程を仮定することはなく、それによって子どもたちがどのように性の型づけを取るかを説明づけようとはしない。

第二に、性の型づけ行動に何ら特別なものが存在しないなら、性の型づけ自体は避けられないものではなく、また修正不可能なものではないことになる。子どもたちが性の型づけをとるようになるのは、彼らの生きる文化が、賞罰に基づく性の違いを基礎としているからである。

仮にある文化が性の型づけという考えにいたらないものであるなら、子どもたちはほとんど性の型づけ行動を示すことはないであろう。

多くのデータがこの性の型づけに関する社会的学習理論の説明を支持している。両親は子どもにとって最初の男性的行動あるいは女性的行動のモデルになるばかりでなく、性に適合した行動か否かによって賞罰を与える存在でもある。乳幼児から、多くの母親たちは、男の子か女の子かによって異なる衣服を着せ、おもちゃもまた違うものを与える。

男の子と女の子に対して異なった反応することについて、親たちは自分たちの固定概念を押し付けているのではなく、単にそれぞれの性の持つ先天的な行動間の違いに反応しているに過ぎない、と考える研究者もいる(Maccody&Jacklin,1974)。

大人たちは子どもたちに対し固定観念的な期待を持って接し、そのことが男の子と女の子とで異なった扱いを導くということも明らかである。たとえば、新生児を病院の保育室の窓を通してみた場合、大人たちは、性の違いを見極めることができると信じている。

父親は性の型づけ行動について、特に息子に対しては、母親よりも強い関心を持つように思われる。息子が「女の子」のおもちゃで遊んでいるとき、父親は母親よりも否定的に反応する傾向がある。しかし、父親は娘が「男の子の」遊びをしていたとしてもほとんど関心をよせないが、それでも母親に比べてより批判的な傾向を示す(Langlois&Downs,1980)。

両親やほかの大人たちが子どもたちに対して性の固定概念で応じることとは別に、子どもたち自身は現実的な「性差別主義者」でもある。子どもの仲間たちが、親たちよりも厳格に性の固定概念的志向を強いる。とくに男の子は、他の男の子が「女の子の」活動をしているのを見ると批判する。

これらの性の型づけに関する現象は、社会的学習理論によってかなり説明できるといえる。しかしながら、社会的学習理論では容易に説明できない事実もいくつか観測されている。

第一に、この理論では、子どもを環境的な力の受動的受けてとして取り扱っている点である。すなわち、社会、両親、仲間そしてメディアすべてが「そうするように」迫ると考える。この見方は、すでに述べた観察とは相容れない。つまり子どもたち自らが、社会の持つ性的規制をより誇張した形の規制として創り上げ、自分自身に対し、世界中の大人たちよりもかなり強くその規制を適用させようとする事実である。

第二に、子どもが性的規制をどう見ているかについて、発達的様式が存在する点である。ほとんどの4歳児と9歳児は、職業選択において性による規制がいかなる場合も存在すべきではない信じている。るまり、本人が望むなら、男性でもCAになれるし女性でもパイロットになることができると考える。

しかしながら、4~9歳児の間の年齢の子どもたちは、より固定的な意見を持つ。つまり、6,7歳児の90%は職業において性に基づく制限がある「べきだ」と主張する。

このようにコールバーグ(Kohlberg,1966)は、ピアジェの認知発達理論に基づいて、性の型づけに関する認知発達理論を発展させたのである。

認知発達理論

2歳児は写真に写った自分自身の性を特定することはできるし、お決まりの衣服を着た男性や女性の写真を見て、それらの性を特定することもできる。しかし正確にそれらも写真を見て「男の子」や「女の子」に分類することはできない。

また、性に基づいて他の子どもがどんなおもちゃが好きかを予測することは難しい(Thompson,1975)。しかしながら、およそ2歳半になると、性つまりジェンダーについて、以前よりも概念的な認識が現れ始める。この時点で、認知発達理論は重要な考えを提供する。

とくに、この理論は性同一性が性の型づけにとって決定的な役割を担うと仮定する。つまり、「私は女の子(男の子)である。だから私は女の子(男の子)用の者を使いたい」という推論である(Kohlberg,1966)。言い換えれば、それは外的報酬を得るという動機ではなく、自分の性同一性に一致した行動をとろうとする動機である。

その結果、子どもたちは自ら進んで、また仲間たちも含めて、性の型づけの課題に取り組むことになると考える。

認知発達理論によると、性同一性そのものは、2~7歳にかけてゆっくりと発達する。それは認知発達の前操作段階(児童期の認知発達1-ピアジェの発達段階理論)の原理と一致する。

とくに、前操作段階の子どもたちは、視覚的印象にあまりにも依存しているため、対象物の見かけが変化したときその対象物の保存に失敗することと、性の概念との間には関連がある。つまり、3歳児は男の子と女の子の写真を分類することができるが、大きくなったらママになるのかあるいはパパになるのか、彼らの多くは答えることができない(Thompson,1975)。

人の性がたとえ年齢あるいは姿形が変形しても同じままであることの理解は、性の恒常性と言われ、それは水、粘土やおはじきを用いた保存とまさに類似する。

多くの研究がコールバーグの考える性役割の同一性に関する発達を支持している(Szkrybalo&Ruble,1999)。性役割の同一性が性の恒常性が確定した後に安定するという考えについては、支持されていない。子どもたちが自分の性に合った活動に対して、強い好みや明確な偏好を示すのは、性の恒常性に到達する以前に見られる現象である(Maccoby,1998)。

またコールバーグの理論は社会的学習理論と同様、なぜ子供たちは自分の男性性や女性性を中心に自己概念を確立するのかといった基本的な疑問に答えていない。なぜ、性が自己を定義する他のものよりも有意に位置するのか。この問題については、ジェンダー・スキーマ理論が答えてくれる(Bem,1985)。

ジェンダー・スキーマ理論

先述のように、社会的学習理論や認知発達理論は、子どもがどのようにして性に適合した行動、役割、人格特性について文化の持つ規則や基準についての情報を獲得していくのか、に関して理にかなった説明を提供する。

しかし、文化はまた子どもにより深い内容の教訓を教える。つまり男性と女性の違いはとても重要であり、それは、あらゆる物事を見るための一連のレンズを構成しているということである。たとえば、はじめて保育所にきて、さまざまな新しいおもちゃや活動が提供される状況を考えてみる。

どのおもちゃを選び、またどんな活動をするのかを決定するのに、子どものとるべき潜在的な基準は、数多く存在する。しかし、あらゆる潜在的な基準の中から、文化は他のすべての可能性を押し退けて一つの基準を協調する。すなわち「まず何をおいてもそのおもちゃや活動が自分の性に適合するかどうかを考える」。

あらゆる状況において、子どもはジェンダーのレンズを通して世界を見るように促される。言い換えればジェンダー・スキーマ(gender schema)、つまりジェンダーに関する信念を通して世界を見るのである(Bem,1993)。

両親や教師たちは、子どもたちに対して直接的に教えることはない。そのかわり、その教えは、その文化の中で暮らす日々の日常的な活動の中に埋め込まれている。

子どもたちはまたジェンダーのレンズを自分自身に適用することを学ぶ。男性あるいは女性を中心として自分自身の自己概念を構築し、自分は本当に男性的であるか、あるいは女性的であるかという疑問に対する答えに照らして、自己の価値を判断することを学習する。

この点で、ジェンダー・スキーマ理論は、性の型づけ理論であると同時に性同一性の理論でもある。

ジェンダー・スキーマ理論は、なぜ子供たちが自分自身の自己概念を男性あるいは女性を中心に構築するかに対する答えの一つになる。認知発達理論と同様、ジェンダー・スキーマ理論は発達する子どもを積極的に自分自身の社会化を試みる行為の主体者とみなす。

しかし社会的学習理論と同様、ジェンダー・スキーマ理論は性の型づけは必然的なものでも修正不可能なものでもないと考える。この理論によれば、子どもたちが性の型づけ的になるのは、彼らの文化がたまたま性に焦点をあて、それを中心としての現実的世界を体制化しているからである。

このような理論は、もし文化において性の型づけが少なくなるなら、子どもたちは行動においても自己概念においても、性の型づけは少なくなるであろうと考える。

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