人間はまた、行動が直接強化されなくても多くの事を学習することが出来る。例えば弟や妹が兄や姉の行動をまねたり、成人であっても初めて何かをやろうとする時など、熟練者の動きなどを観察し模倣したりもする。
こうした模倣は生まれつきにのものか、それとも学習されたものなのか?この問題についてはミラーとダラード(1941)の実験は1つの解答となり、彼らは模倣を条件づけすることが可能であることを、ねずみの迷路学習の実験によって示した。
迷路を既に学習したネズミ(リーダー)の後についていくと報酬を与えるという訓練を他のネズミに行った。その結果ネズミはリーダーの行動を模倣することを学習したのであった。
ミラーらはまた、学習された模倣が他のリーダーや装置へと般化することも示し、模倣の般化は種類の異なる反応にも及ぶことがあるとした。
また幼児を被験者として操り人形を使った実験では、幼児が人形のある特定の動作をまねるたびに人形がほめる(一種の社会的報酬)と、その特定の動作の模倣が増えるだけではなく、人形の他の動作を積極的に模倣されるようになった。これを般化模倣と呼ばれる。
観察学習(observational learning)
前述のようにある種の模倣は条件づけの手続きによって学習され、過去に強化を受けた模倣は繰り返されやすい。とくに模倣のこうした側面を強調立場を模倣の強化理論と言われる。
我々の日常生活において、他者の行動を観察することで学習されている部分も多くあるが、こうした観察学習(observational learning)による模倣は必ずしも強化を受ける必要がなく、強化理論によって説明できないこともある。
多くの場合、観察の対象者となるモデルの行動を見ただけで学習が生じているように見受けられ、学習するとき観察者はモデルの行動を一つ一つ模倣し実行し、それに対して報酬や罰が与えられるというわけではない。
観察学習の研究で名前のよく知られた研究者、アルバート・バンデューラ(Albert Bandura 1963)は、当初観察学習はオペラント条件づけ(道具的条件づけ)の原則によって行われると強調した。すなわちモデル(行動をする実在の人物、あるいは書物などの教えも含め)は行動の結果についての情報を教えてくれる。
その多くの場合、強化は「代理性」であり、模倣する人はまさにモデルと同じように強化されることを期待すると考えた。
バンデューラの初期の研究では、子供たちにおける攻撃行動の観察学習に関するもので(1961)、この研究では3~6歳の子供たちを3つの群に分け、①賞を受けるモデルの行動を見る群、②罰を受けるモデルを見る郡、③強化を受けない郡に分け、映像を見せた。
映像はボボ人形(風船人形)に対して攻撃的にふるまう大人のモデルが現れる。ここまでは各郡の子供たちにも同じ映像で、後半では①の群では画像に別の男性が現れ、乱暴したモデルに報酬が与えられる映像、②の群では別の強い男性が現れ、モデルが罰を受ける。③の群には前半の映像だけ見せた。
その後、子供たちは多種多様の遊具がある部屋に入室させると、②の罰を受けるモデルを見る郡の子供たちは①③の郡の子供たちに比べ風船人形に向けてより攻撃的な行動が少なく、①③の郡は攻撃的な行動し、また①の群はより攻撃的な行動をすることが示された。またバンデューラは、子供がTV、フィルム画像などでも示されたモデルの攻撃行動にさらされた場合にも非常に似た影響を示すことを示した。
後に、バンデューラは認知能力が観察学習の成立に必要であることを強調し、認知過程を組み込んだ理論を提唱した(1977,2001)。
その理論によれば、観察学習は「注意」「保持」「再生」「動機づけ」の4つの過程からなる。
①注意
学習者は、モデルの行動に注意を払い、その結果を観察すること
②保持
観察したことを覚えておくこと
③再生
その行動を再生できること
④動機づけ
その行動を全て遂行されるわけではなく、遂行されるかどうかは強化がかかわりを持つ(行動するように動機づけられていること)
この場合の強化(行動するように動機づけられていること)はかなり意味が多様なものとしてとらえられる。オペラント条件づけ(道具的条件づけ)での意味の強化は外的強化と言われる。
またバンデューラの初期の研究であったように、観察者は他者をどう行動するかを観察するだけではなく、他者が報酬や罰を受けるのを観察し、このことで観察者の行動に影響する場合に働く過程での強化を代理強化と呼ばれる。
さらに、ある基準に自分の行動が達したときなど、自分でコントロールできる報酬を自分自身に与えてその行動を強化したり維持する過程の自己強化の概念も関わりがある。
観察学習にはこれらが出来なければならないとし、想像したり予想したりする能力が必要とされ、思考や意図は根本的なものである。このようにバンデューラは人間の社会学習における認知の重要性に焦点を合わせおり、彼の見解によれば、人間は自身の経験の主体者であって「受動者」ではない(2001)といっている。
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